きっと、ぱるふぇ。

考えたことや趣味について綴っています。

論理的思考力

このシリーズ、しばらく更新していませんでしたが、

下書きをやっと出すことにしました。

 

論理とは何か

私は論理学に詳しいわけではありませんが、論理と一口に言っても様々な論理があるようです。ここでは、後の言いたいことのために、また簡単に考えるために、すべての命題(「○○は××である」といった文)を真か偽の2つに分けるものを「論理」と呼ぶことにします。 


ここで、その命題が真であるとは、絶対に正しいということを意味します。逆に、その命題が偽であるとは、必ずしも正しくないということを指すことにしましょう。


例えば、「明日の天気は晴れ」という文は「偽」に該当します。なぜなら、雨が降る可能性もあり、”絶対に”晴れるとは言えないからです。ですから、「真」であることを口にしたければ、「明日は晴れる可能性がある」といえばよいわけです。


「絶対に」「可能性がある」というとおかしな気がするかもしれませんが、「絶対に」は、あくまで「文につけても頷ける」程度のものと捉えてほしいです。


正確な論理を扱いたい方は、学問としての「多値論理」や「様相論理」について学んでください。ここではあくまでも、コミュニケーション能力について話をしたいと考えています。


論理的思考力とは


では、この論理に基づいて考えてみたいと思います。例えば、ある人が「辛い物が好きです」と言ったとします。ここで、話し手も聞き手も、それは真だと考えている状況を考えます。


すると、これを聞いた人は、「話し手は麻婆豆腐が好きなのか」と考えるでしょう。(私の趣向で辛い食べ物の代表を麻婆豆腐にしました)読者の皆様も、何か辛い物を思い浮かべて「この人は○○が好きなのか」と思ったのではないでしょうか。


これが論理的思考力だと私は考えます。これはこう言い換えることもできます。○○には「一般的に辛いとされるもの」が入れば真なる文ができるということです。


また、「この話し手の嫌いなものを当ててください」と言われた人は、少なくとも麻婆豆腐含め、辛い物を除外して何か発言しようとするはずです。


これが私の考える論理的思考力なのですが、いかがでしょうか。こういった思考力を備えていない人はあまりいないと思います。つまり、論理的思考力と大げさに言われているものは何か別のものの可能性が高いと考えています。


例えば、不慣れな事柄について論理的思考力を直ちに発揮させるのは難しいかもしれません。


中学生が2次方程式を利用して文章題を解けなかったときに、「論理的思考力がない」と指摘するのは正しいのでしょうか。慣れていてパターンを掴んでいる人にとってはこういった問題は簡単かもしれませんので、その中学生は慣れていないだけかもしれません。


また、式を立てるところ、あるいは式を立てた後に変形できずに解けていないのかもしれません。これは別の能力が欠如しているのではないでしょうか。


日常的にも、学問や仕事で難しいと感じることは多々あり、瞬時に論理的思考力を働かせることができないかもしれません。そういった原因には「不慣れである」「前提が理解できていない(忘れてしまっている)」等があるかもしれません。論理的思考力という一言で済ませてしまうと、その奥にある原因がしっかり追究できなくなる可能性があるのではないでしょうか。


相手に正確に伝えるために


話がそれるようですが、この記事は『コミュニケーション能力とは』の続きであることを思い出して、次の考えを述べたいと思います。それは、相手に正確に何かを伝えたいと思ったとき、相手にも上述のような論理的思考力が備わっている前提で発言をするべきだと私は考えます。


例えば上と同じ例で、「辛い物が好きだ」と言ったときに、「話し手は辛いものなら何でも好きだ」と考えてしまう人も少なからずいるのではないでしょうか。そういう発言は控えましょう、と言うとさすがに窮屈な世の中になってしまうと思いますが、ビジネスシーンでの伝達など、正確に伝える必要がある場面も少なからずあるはずです。そういった場面では、例えば「唐辛子、わさびを使った料理が好きです」と言えば、山椒を使った料理は除かれることになります。


このようなことを堅苦しいシーンでいうことはあまりないかもしれませんが、1つの参考になればと考えています。


また、日常会話では、「たいていの辛い物は好き」などと言えば、不正確に伝えることを避けられる上に、「じゃあ麻婆豆腐は好き?」などと話が弾んでいいかもしれません。すぐに断定口調で話さずに、ちょっと濁す。これが私が心掛けている話し方です。


価値観が違えば結論も違う


ここでも論理的思考力が備わっている前提で話を進めます。


論理とは、すべての命題を真か偽として結論付けるものであるというのがここで考えている論理だということは冒頭でも述べたことです。真偽は論理のゴールともいえる到達点ですが、であれば、出発点もあるはずです。その出発点となる考え方こそが「価値観」ではないかと私は考えています。


出発点ということはそれ以上論理として遡れないものであり、したがって、それは論理によって揺るがすことができないものです。繰り返しになりますが、それこそが個々人が持つ「価値観」ではないかと考えているわけです。


例えば好みは人それぞれの意向であり、論理によって揺るがせない価値観に近いと思います。「なぜ○○が好きなのか」と問われても、回答するのはなかなか難しいような気がするからです。


では仮に、好みが「価値観」であり、人それぞれの前提となる考え方であるとします。


今ここに辛い物が好きなAさんと嫌いなBさんがいます。このとき、Aさんは辛い食べ物がすべて好きで、Bさんはその真逆です。論理なので、このように極端な設定を考えます。


ここで2人によって以下のような会話がなされたとしましょう。


A : 麻婆豆腐っておいしいよね。

B : どうしてそう思うの。

A : だって麻婆豆腐は辛いからね!


Aさんの中では「辛い物はおいしい」という命題が真になっているのでこのような発言をします。しかし、Bさんはこの後納得するでしょうか。「私は辛いから麻婆豆腐が嫌いなんだけどな…」という風に思うはずです。


何が言いたいかというと、「辛い物はおいしい」とういう結論が、Aさんの中では真、Bさんの中では偽、と食い違っているのです。このようなことは多々あり、コミュニケーションにおいて留意するべき点だと思っています。


このようなことに気を付けていないと、Aさん側は価値観の押し付けを、Bさん側は価値観の否定をすることにつながってしまうと危惧しています。


Aさんは「麻婆豆腐はおいしい」ということを押し付けずに、Bさんが「辛い物が嫌い」という価値観を持っていることに留意すべきです。一方、Bさんは、Aさんが「辛い物が好き」だという価値観を持っていることに気を付け、「Aさんは辛い物が好きだから麻婆豆腐が好きなんだな」というような納得をすれば、お互いにギスギスせずに済むはずです。


言いたいことが伝わったでしょうか。論理をコミュニケーションのすべてと捉えずに、その前提となる価値観にも目をやれば、もっと良い関係を築くことのできるコミュニケーションができるのではないかと考えています。